順調なはずなのに、心がざわつく日々

私を取り巻く「外側の順調」
私は、一般的な日本教育を受け、大学進学までさせてもらい、就活を経て新卒で社会人デビュー
上場企業と言われる社会的信用がある肩書きの会社に入社し、営業職に就いた。
もちろん営業職なので、営業成績による評価があり、勤続年数が上がれば部下も増え
運良く、自分の特性にあった分野での仕事であったため、私は優秀な成績を残しながら昇進をすることができました。いわゆる「恵まれた一般的」な生活を送っていました。
ふとした瞬間に感じる「これがずっと続くのかな」という感覚
そんな順調な生活を送っている一方、ふとした瞬間、特に寝る前に私はいろんな感情や感覚と出会いました
どこか不安や焦りのような感情、急な虚無感、無気力・・・
答えが出ない問いで頭がいっぱいになるのにも関わらず、そのまま眠りにつき、また仕事をしたり遊びに行ったりしていました。
ただ、今思うことは、「疲れていた」から考える体力もなかったのだということ。
長期間このような思考が巡り続けると不思議なことに慣れていき、気づいたら「これがずっと続くのかな」という思考が巡るようになりました。
「贅沢な悩み」だと自分を責めた過去
私は今恵まれているのになぜこんな贅沢な悩みをしているんだと責めることもありました。
幼い頃から、親からは不満や不平を語る前に、自分の恵まれていることに目を向けることの大切さを教えられた過去の経験からそう感じるようになったのです。
この教え自体私は心から納得のいっているものですが、自分に対する問いに対しては非常に答えから遠ざける要素でした。
悩みがあるって幸せだな〜と誤魔化し続けながらも抱き続けた感情は日々大きくなっていくのでした。
コンフォートゾーンの中で感じた“言語化できない違和感”

頭ではなく、身体が拒否していたものがあった感覚
考えるべきサインは感じ取っていたものの、とにかくオチは「寝る」か「考えるのをやめる」でした。
なぜそうなるのか、ということに疑問を抱いた結果、「あ、私は頭と心が疲れてるんだ」というシンプルな答えに辿り着くのです。
平日は仕事をして眠り、土日は溜まった家事と友人と遊び、自分のキャパシティを隙間なく埋めていたつもりでしたが、もちろんそんなはずはなく、隙間時間はたっぷりありました。
ただ、その隙間時間というのはSNSの利用によって溶かしていたので、常に私は「忙しかった」のです。
“自分の感覚”に耳を傾け、興味が湧いてきた
もはやここまで続くと面白くなってくるものです。
自分が考えきれない、答えを求める行為を避ける原因は疲労にあるということに気づいたので、「自分時間」というものを作ることにしたのです。
私は「ソロデート」と名付け、自分に予定を与えてみました。
(本当におすすめなのでまた詳しく別の記事で書きますね)
すると、なんかワクワクする感覚に出会うようになり、その時間を積極的に欲するように。
心の中で繰り返す「内なる声」は敵ではなかった
正直、「めんどくさい」「疲れた」の感情や言葉の裏には、自分と向き合うことが怖かっただけということを今は感じています。
それはまるで敵かのように感じたり、邪魔者のように感じたりしていました。
でもソロデート時間で出会う感情はまるで友達のような何も対価があるわけではないけれど、大事な時間なんだと認識したら優しい気持ちになるものです。
内なる声は敵ではなかった、それに気づいたのです。
まだ何も分からないけど、“分かろう”とし始めた
行動はまだしていない、でも確実に心は動いていた
このとき、実際に大胆な行動はもちろんしていません。ただ少しづつ、心に変化は生じてきていました。
まずは自分の時間を作り、他者に私の人生の選択を委ねることができないことを認識しました。
すると、限るある人生の残り時間(いつ終わるかもわからない)をどう使いたいのか?という問いに変化していきました。
そして何度も思い浮かぶ「こうなったらいいのに」「これしてみたいな」という感情から妄想は広がります。
書くこと・考えることを続けてみた
私は良くも悪くもすぐに物事を忘れます。
そんな自分の気質を知っていたので、ふと自分の中に浮かぶ像や出来事を気軽にメモするようになりました。
考える→書く→考える→書く→・・・・
こんなことを繰り返していたら自然に自分が興味を持っているコンテンツ(特にSNSのレコメンドたち)が私の関心の高まっている将来の理想の生き方に類似するものを見せるようになっていきました。
ただし、疑い深く、ケチな私は「即効性がある」「簡単にできる」というような“うまい話”に対しては情報の一つとして置き、それ以上の誘導、例えば「秘訣を知りたい方はこちらから」というような文言に対するアクセスは一切しないようにしていました。
そうすると、思考法やおすすめ書籍などの情報を得ることになります。
すでに迷いの生じている人に対する有益な情報は溢れかえっているもので、そこから私は情報収集を通して自身が求めていることを言語化してくれていることに感謝しながら次のような作業を繰り返していくのです。
情報収集→考える→書く→情報収集→考える→書く→・・・
このメモに記載したこと、何度も同じ感情になる自分に気づいたこと、これら全てが自分を映す鏡のようになっていました。
違和感は“間違い”じゃなかった

違和感から導いたのは“答え”じゃなく“スタート地点”
私の感じていた違和感たちの姿が明らかになってきたところで勘違いしそうになったことは、それが「正解」であるかのように見えたこと。
でも冷静に考えて、そんな簡単にモヤモヤの答えが見つかるわけはない。
そしてこれは私のとっての“スタート地点”を新たに発見したのだと気づきました。
もちろん今までの積み重ねはあったので人生やり直しなんていうような言葉にしたくはないのですが、とにかくここで大事な気づきを得たこと本当に良かったと心から思っています。
そこに正しさや間違いはなく、「気づいた自分」をまず肯定することから
他人の目を気にせざるを得ないような社会の仕組みの中、どうしてもそれが正しいのか?間違いなのか?というジャッジをしてしまいそうになることもあります。
ましてや、自分の考えを他人に話すなんてして「間違い」というような反応をされることを考えるだけでもビビります。
ただ、私が大事にしたことは自分の気づきに正解や間違えということを判断するのではなく、ただの現象として捉え、そしてその気づきをした自分は肯定してあげることにしました。
「この不安の正体とは何だったのか?」
結論、この不安の正体は自分の時間を自分でコントロールできない状態が続くのではないか?ということに対する恐怖でした。
贅沢な悩みでもあり、恵まれた環境だからこそ、言い切れないこともたくさんあります。
でも確実に言えるのは、私の感じた“違和感”というのは、
社会・会社の歯車の中で、「これが目指すべき姿」という像を見せられていたから感じたもの。
そして何度も繰り返しになりますが、答えや正解を押し付けるつもりは一切ありません。
私は自分に時間を与え、学び、考え、そして行動をして新たな発見を重ねていこうとしています。
シリーズにしようと思っておりますので、良かったらまた覗きにきたくださいね。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
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